山本常朝は大石内蔵助をどう見たか「吉良殿病死の時は残念千万なり」

武士
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「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」という言葉で有名な『葉隠』の口述者・山本常朝(やまもと・じょうちょう)は、『忠臣蔵』の原案となった赤穂(あこう)事件で知られる大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)についてどのように見ていたのだろうか。

山本常朝の大石内蔵助観は、『葉隠』の記述から窺うことができる。

山本常朝(やまもと・つねとも、じょうちょう)。万治2年6月11日(1659年7月30日) – 享保4年10月10日(1719年11月21日)。江戸時代・佐賀藩の武士。佐賀藩2代藩主の鍋島光茂に仕える。お役御免となった時期に湛然和尚に仏道を学ぶ。また神道・儒学・仏道のすべてをきわめ藩随一の学者とされた石田一鼎の薫陶を受ける。常朝が42歳の時に藩主光茂が死没するも光茂自身の殉死禁止令によって殉死が許されなかったため、失意のまま願い出て出家。後に隠遁していた常朝のもとを田代陣基が訪ね、口述筆記によって『葉隠聞書(はがくれききがき)』が書かれた。
大石内蔵助、または大石良雄(おおいし よしお/よしたか)。万治2年(1659年)~元禄16年2月4日(1703年3月20日)。江戸時代・赤穂藩の武士。21歳のときに赤穂藩筆頭家老となる。元禄14年に藩主の浅野内匠頭がいわゆる「松の廊下」で吉良上野介に斬りかかる刃傷沙汰が起こり、主君の浅野内匠頭は即日切腹の上、赤穂藩はお家断絶の処分が下る。大石らは御家再興と仇討とを天秤にかけながら時節到来を待ったが、御家再興に現実性がなくなった翌年末、47人の同志とともに吉良邸に討ち入って吉良上野介の首級を挙げる。義挙として称賛されるも、大石はじめ討ち入り参加者全員が死罪になった。この赤穂事件は『忠臣蔵』のモデルになったことで有名。

「打返しの仕様は切り殺さるる迄なり」

ここから、山本常朝が赤穂事件や大石内蔵助について言及した箇所とその前後を抜粋していく。

前段は復讐・仕返し一般に関して話しており、その流れで赤穂事件の話になる。まずはその前段から。

何某、喧嘩打返しをせぬ故恥になりたり。打返しの仕様は踏みかけて切り殺さるる迄(まで)なり。これにて恥にならざるなり。仕果す(しおおす)べきと思ふ故、間に合わず。向(むこう)は大勢などと云ひて時を移し、しまり止めになる相談に極るなり。相手何千人もあれ、片端よりなで切りと思ひ定めて、立ち向ふ迄にて成就なり。多分仕済ますものなり。

引用:『葉隠』(聞書第一・五五)

現代語で訳せば、このようになる。

「ある人が喧嘩の仕返しをしないために恥をかいたことがある。仕返しの方法といったものは、踏み込んで斬り殺されるまでやることに尽きる。ここまでやれば恥にはならない」

「うまくやりとげようと思うから、かえって間に合わないことになるのだ。むこうはおおぜいだからこれはとてもたいへんなことだ、などといっているうちに時間がたってしまい、ついに終わりにしてしまう相談にでもなるのが落ちだ」

「たとえ相手がなん十人いたとしても、片っぱしからなで斬りにしようと決心して立ちむかうことで、ことの決着がつく。それでたぶんうまくいくものだ」(訳は三島由紀夫『葉隠入門』による)

「敵を討つこと延延。吉良殿病死の時は残念千万なり」

その続きで赤穂事件の話が出てくる。

又浅野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが越度(おちど)なり。又主を討たせて、敵を討つ事延々(のびのび)なり。もしその内に吉良殿病死の時は残念千万なり。上方衆は智慧かしこき故、褒めらるる仕様は上手なれども、長崎喧嘩の様に無分別にすることはならぬなり。

引用:『葉隠』(聞書第一・五五)

「また浅野の浪人たちの夜襲にしても泉岳寺で腹を切らなかったことがそもそも失敗だといえる。主人がやられたのに、敵を討ちとることがのびのびとなっていたが、もしそのうちに吉良殿が病死でもされてしまったら、まったくもって、とりかえしのつかないことになる」(三島由紀夫『葉隠入門』による)

泉岳寺」は大石らの主君である浅野内匠頭の墓があった寺で、討ち入りに成功した赤穂浪士らは討入り後に吉良の首級を墓前に備えに行っている。ここで常朝は、墓前に供えるという目的を達成したなら、その場でさっさと切腹して終わりにすべきだったと述べている。

次いで大石ら赤穂浪士が仇討まで時間をかけすぎていることを指摘し、「その間に仇の吉良上野介が病気で死んでしまったりしたなら取返しのつかないことだ」、そして「上方の侍は利口なので褒められるのは上手だが、長崎喧嘩のように無鉄砲に振る舞うことはできないのだ」と言っている。

長崎喧嘩は深堀事件ともいう。元禄13年12月19日~20日(1701年1月16日~17日)に起こった。当事者は長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士。雪でぬかるんだ道で着物に泥が跳ねたことが発端となって双方に死者の出るほどの騒動に発展した。佐賀藩側の武士は報復に成功したものの、最後は双方の当事者が切腹して騒動は収拾した。当時この事件は全国的に話題になったという。

「上方」は、一般的には天皇の住む京の都を中心とした一帯を指す。しかし『葉隠』では「上方風の打ち上がりたる武士道」(上方風の思いあがった武士道)というように一貫して否定的に使われる言葉である。

『葉隠』の中での「上方風」は、佐賀藩をはじめとする武骨な地方武士の風俗と対蹠的な意味の言葉で、現代で言うところの(東京外・地方人が皮肉を込めて言う場合における)「都会風」「東京風」のような言葉に近いニュアンスで用いられている。

したがってここで山本常朝は、上方武士の大石内蔵助らの赤穂事件よりも、速効的で我武者羅な仕返しをした郷里を同じくする長崎藩士らの長崎喧嘩を、本来あるべき武士の仕返しとして上位に置いているのである。

このように後世武士道の精華のように称されるようになった赤穂事件(間接的にはその中心人物の大石内蔵助)を、山本常朝が称賛するかと思いきやダメ出ししていることは興味深い。

五五節の結び

またこの聞書第一の五五節は「時の行掛りにて勝負はあるべし。恥をかかぬ仕様は別なり。死ぬ迄なり。その場に叶はずば打返しなり。これには智慧業も入らざるなり。曲者といふは勝負を考へず、無二無三に死狂ひするばかりなり。これにて夢覚むるなり」と結ばれている。

現代日本語で言うなら大略、「勝つか負けるかは時の運だが、恥をかかない仕方はまた別だ。死ぬだけだ。その場でできなければ仕返しに行けばいい。これには知恵なんて必要ない。強い侍は勝つか負けるかという打算などなく、ただただ死ぬ気で暴れる者をいうのだ。これで目も覚めるというものだ」という意味であろう。

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