心理学者のユングは、その師ともされるフロイトをどのように見ていたのか。
それについては『ユング自伝』の記述から窺うことができる。
この記事の主要な登場人物
「性欲は彼にとって一種のヌミノースムである」
カール・グスタフ・ユングは若い頃、ジークムント・フロイトの心理学理論にある部分では強く共鳴しつつも、フロイトがあらゆる病的症例を性欲に原因があると決めつけることに違和感を覚えていたと述べ、それについて『ユング自伝』の中で詳しく説明している。
なかでもフロイトの精神に対する態度は私には大いに疑問に思われた。
ある人物あるいはある芸術作品において、精神性(知的な意味においてであり、超自然的な意味においてではない)の表出がみられると、必ず彼はそれを訝(いぶか)り、それは抑圧された性欲であるとほのめかした。
性欲だと直接に解釈できないものは何でも、「精神性欲」だと言った。
私はこの仮説は論理的に煮つめていくと、文化に対する壊滅的見解になっていくだろうと主張した。そのとき文化は単なる茶番劇、つまり抑圧された性欲の病的な結果にすぎないとみられるだろう。
「そうです」と彼は同意した。「そうなんです。そしてそれがまさに私たちが抗するには力不足な運命のたたりなのです。」
(中略)
フロイトが性理論に異常なまでに情緒的に関与しているという事実には、何の誤りもなかった。それを話すとき、彼の調子はしつっこく気がかりな様子となり、普段の批判的、懐疑的態度は消え失せた。
顔面には奇妙な動揺した表情がうかがわれ、そのわけを理解しかねて私は途方にくれた。
性欲は彼にとって一種のヌミノースムであると私は直感した。
(中略)
性欲はフロイトに対しては、他の人々に対してよりも明らかに多くのことを意味していた。それは彼にとっては宗教的に観察されるべき何かであった。
引用:『ユング自伝――思い出・夢・思想』(みすず書房、1972)216~218頁
このようにユングは「性欲」はフロイトにとって一種のヌミノースだと洞察しているのだが、加えて、そうしたフロイト自身の神話的ともいえる側面を彼が認めず、そこから逃避する限り、「(フロイトは)自らと決して和解することは」出来ないとも述べている。
そしてフロイトのそうした特徴をユングは次のように総括する。
彼はしようと思えば自ら認識しえた一つの側面の犠牲者であり、そしてそのゆえに、私は彼を悲劇的人物とみる。というのは、彼は偉大な人物であり、そしてそれ以上にデーモンにとりつかれた人物だったから。
引用:『ユング自伝――思い出・夢・思想』(みすず書房、1972)220、221頁
『ユング自伝――思い出・夢・思想』の見どころ・読みどころ
『ユング自伝――思い出・夢・思想』は管理人にとって、「何でこんなに面白い本がもっと読まれないのか」と思うものの一つだ。
このサイトでは既に『ユング自伝』から、ユングのフロイトに関する記述、ニーチェに関する記述を記事にしているが、他にも幼少の頃に巨大なファルロスが出て、母が「あれが人食いですよ」と叫ぶ夢を見たという記述などはかなり有名かもしれない。
しかし特に圧巻はアフリカの草原での夜明けとともにユングが「意識の宇宙的意味」に関する直観を得るというシーンだろう。(第2巻・旅「ケニヤとウガンダ」の節)
ユングはニーチェに対して批判的だが、たしかにニーチェなら「意識の宇宙的意義」についてなどけして信じないだろう。
本記事で扱ったフロイトの著作では、以下のものはAmazonの電子書籍読み放題サービス『Kindle Unlimited』で読むことができる。(2022年11月11日閲覧時の情報)
- 『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス 』(光文社古典新訳文庫)
- 『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』 (光文社古典新訳文庫)
- 『幻想の未来/文化への不満』 (光文社古典新訳文庫)