ユングはニーチェをどう見たか。「最大の慎重さで遇せられる狂人」

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心理学者のグスタフ・ユングは哲学者フリードリヒ・ニーチェをどのように見ていたのだろうか。

ユングのニーチェ観は『ユング自伝――思い出・夢・思想』の記述からうかがうことができる。

カール・グスタフ・ユング(1875年7月26日 – 1961年6月6日)はスイスの心理学者で精神科医。当初フロイトに師事したが後に決裂して独自の道を歩む。「集合的無意識」「元型」「共時性」といった独特の概念を提唱したユング心理学は時にオカルティックとも評されるが、フロイト、アドラーと並んで近代心理学における3巨頭の一人と言える。

フリードリヒ・ニーチェ(1844年10月15日 – 1900年8月25日)はドイツの哲学者。哲学者ショーペンハウアー、音楽家ヴァーグナーに影響されるも後に決別。1889年に発狂、その11年後の1900年に死没している。「神の死」「超人」「永劫回帰」といった概念によって現代にまで強い影響力を持つ哲学を展開した。

「最大の慎重さで遇せられる狂人」

ユングは『ユング自伝――思い出・夢・思想』の「学生時代」の項で、スイス・バーゼル大学で学んでいた時に、ニーチェの著書『反時代的考察』と『ツァラトゥストラかく語りき(ツァラトゥストラはこう言った)』を読んでどのように感じたかを率直に書いている。

多分彼は内的体験や洞察をえ、かつて不幸にも話そうと試みて、誰も彼を理解しないことを見出してきていたにちがいなかった。明らかに彼は、少なくとも察せられる限りでは、常軌を逸したもの笑いの種であった。(略)

ツァラツゥストラはニーチェのファウストであり、彼の№2であって、私の№2はその時ツァラツゥストラに相当していた。(略)そしてツァラツゥストラは――それについては全く疑いの余地がないのだが――実に病的であった。(略)

彼は、才気縦横だったのでまだ若い時に、前途に何がひそんでいるかを考えもせずに教授としてバーゼルにやって来たのだった。そのすぐれた才気ゆえに、彼は何かがうまくいっていないことにタイミングよく気づくべきだったのに。

これは私には彼の致命的な誤解だと思えた。つまり彼はそんなことを全く知らず理解もしない世間に自らの№2を大胆に怪しみもせず明かしたのである。

彼は自らの恍惚を分ち、「彼のあらゆる価値の転換」を理解しうる人々を見出したいという子どもっぽい望みに駆られたのだった。しかし、彼は教育を受けた門外漢を見出しただけだった。――悲喜劇的にも彼自身もその一人であったのだ。

彼らと同様に、ニーチェも最初言いようのない神秘さに魅せられ、愚かで堕落し果てた大衆に向かってその讃歌を歌おうとした時には、自分をよく理解していなかったのだった。

それが、大げさな言いまわし、大量の暗喩、讃美歌まがいの有頂天などの理由であった。そしてこれらすべては、そのたましいを多くの脈絡のない事実に売払った世人の耳をとらえようとする無益な試みだったのである。

そして彼自らそう宣言したのだが、綱渡り人たる彼は自身をはるかに超えて深みに落ち込んだのであった。彼はこの世の中で自身の進むべき道を知らず、最大の慎重さで遇せられる狂人に似ていた

引用:『ユング自伝――思い出・夢・思想』(みすず書房)太字は引用者による

解説

ユングの言う「No2」とは、ごく当たり前に自他に認められている人格を「No1」の主人格とした場合に、自覚することの難しいもう一つの人格・副主人格について表現したものである。ユングは自分のそれを少年期から自覚しており、彼の場合は権力を持った18世紀の老人だったという。

ニーチェの警戒心の乏しさへの非難

ユングは文中で「彼は何かがうまくいっていないことにタイミングよく気づくべきだった」と述べ、さらには「致命的な誤解」という強い言葉でニーチェを非難している。

ユングがニーチェを非難しているのは、彼が「ツァラトゥストラ=No2」のような己の最深の秘密を、事前に世間にはまったく理解されないと予期することができたはずなのに平然と明かしたということである。

つまりユングに言わせれば、「ツァラトゥストラ=No2」のような深い秘密はそうそう他人に打ち明けるべきものではなく、それを自覚しても己の胸一つに秘めておくべきものなのである。

そしてユングは、そうしたニーチェの警戒心の乏しさ・不用心さが、彼を世間からますます切り離されて孤立させ、最終的な破滅、つまり発狂の遠因となったと見ているようだ。

それにしてもニーチェの文体の特徴であり個性でもある激しい言語表現を「大げさな言いまわし、大量の暗喩、讃美歌まがいの有頂天」としているのは辛辣である。

ニーチェはツァラトゥストラというより「綱渡り人」

文中に出てくる「綱渡り人」とはニーチェの主著『ツァラトゥストラかく語りき(ツァラトゥストラはこう言った)』の序盤に出てくる登場人物で、衆人の前で綱渡り芸を披露するも綱から足を踏み外して落下・死亡する男である。

物語の中で主人公のツァラトゥストラは、落下して瀕死の重傷を負い自分の運命を嘆く綱渡り人に「危険を己の職業とした」と慰めの言葉を与える。また綱渡り人が息を引き取ると死体を担いで運び、翌日には狼が死肉を漁らぬように木の洞穴に葬っている。

言うまでもなく『ツァラトゥストラ』の著者ニーチェはツァラトゥストラその人に己を重ねている。ところがユングはここで逆に、ツァラトゥストラによって葬られた綱渡り人をニーチェと重ねているのである。

ユングの「綱渡り人たる彼は自身をはるかに超えて深みに落ち込んだ」という言葉は、『ツァラトゥストラ』作中で綱渡り人が綱から落下して瀕死の重傷を負うことと、ニーチェその人の発狂を「落下」にたとえて表現したのである。

スイスのバーゼルでニーチェはどのように見られていたか

あらためて調べてみると、ニーチェとユングには意外な共通点があることに気付かされる。

まずユングとニーチェはともにプロテスタントの教職者である牧師の息子である。

そしてもう一つは、ニーチェが文献学者として勤めたスイス・バーゼル大学をユングも卒業しているということである。ニーチェは古典文献学教授であり、ユングは同大学で医学を学んだ。

こうした事情から学生時代、ユングはニーチェが主たる思想を表明した時代に遠からぬ時に(既にニーチェは発狂していたが、それでもまだ存命中に)、「人間・ニーチェ」に関する生々しい証言を仕入れることができたようだ。

本題の「ユングのニーチェ観」とはあまり関係はないが、その証言も興味深いので引用しておく。

そのころ彼は、伝えられるところでは、有能な哲学の学生たちによって、たいていは反対論であったがよく議論されていた

そのことから私はより高い層で支配的なニーチェに対する敵意を推しはかることができた。至高の権威者はもちろんヤコブ・ブルクハルトであり、彼のニーチェにかんする種々の批判的な論評が言いふらされていた。

さらには大学にはニーチェを個人的に知っていて、ニーチェについてのいろんなお世辞抜きのおもしろいニュースを話してくれる人が幾人かいたのである。

彼らはたいてい、ニーチェを全く読んでおらず、したがって彼の外面的な欠点、たとえば紳士然とした風をしているとか、ピアノのひき方だとか、文体の大げさなこととか――当時、バーゼルの善良な人々の神経にさわった数々の特徴を、くどくどと詳細に述べたてた。

引用:『ユング自伝――思い出・夢・思想』(みすず書房)太字は引用者による

ユングの生年は1875年、バーゼル大入学が20歳の時である。またニーチェの死没は1900年なので、既にニーチェは発狂していたが死没する直前ごろの証言と思われる。

当時ニーチェへの言及は批判的なものが大半だったという。また文中の批判者として、ニーチェにバーゼル大時代の同僚・先輩でもあり深く敬愛されたヤーコプ・ブルクハルトが登場するのは興味深い。

ヤーコプ・ブルクハルト(1818年5月25日 – 1897年8月8日)はスイスの優れた歴史家、文化史家、文明史家。生まれ育ちがともにバーゼルで生粋のバーゼル人。バーゼル大の同僚としてニーチェとも親交があり、深く敬愛された。名利に関心を持たずに、「Bene vixit,qui latuit(うまく隠れて生きた者こそ、よく生きた者だ)」という言葉をモットーとした。(Wikipedia

さらにユングの学生時代、「史上の人物」としてではなく実際に生身のニーチェについて見聞きした人がまだいたらしく、彼らによってニーチェのちょっとした所作までが槍玉に上がったという。

我々が母校の高校や大学の教員の物真似をしたり揶揄したりするのと同じレベルでニーチェについて話すことのできる人たちが、ユングの時代にはまだいたということだ。

また先に引用した「彼はこの世の中で自身の進むべき道を知らず、最大の慎重さで遇せられる狂人に似ていた」という言葉には次のような興味深い文が続いている。

私の友人や知人の間で、公然とニーチェの支持者だと言明したのはたった二人きりであった。両者とも同性愛者であり、一人は自殺し、他方は誤解された天才として老いていった。

その他の友人たちは、ツァラトゥストラの訴えには何も感じないのかと思えるほど、ツァラトゥストラの現象に驚かされていなかった。

引用:『ユング自伝――思い出・夢・思想』(みすず書房)

もちろんここで「同性愛者」という表現が出るのは、ことさら差別的な意味合いではない。

キリスト教圏のヨーロッパで長い間同性愛者がどのように見られていたかを考えるなら、当時そのような破滅的な異端者でもない限り、公然とニーチェを支持する勇気のある者はいなかったという意味である。

こうした諸々の証言は、時間とともに純化されて古典になる以前のニーチェがどのように扱われていたかが窺えて興味深い。

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