スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、古代ギリシャの哲学者・犬儒派のディオゲネスをどう見たのだろうか。
オルテガのディオゲネス観はオルテガの代表的著書『大衆の反逆』の記述から窺うことができる。
「犬儒派は文明のボイコット」
オルテガは『大衆の反逆』の第1部・第11章「慢心し切ったお坊ちゃん」において、義務に生きる高貴な貴族的人間と対比して、大衆人を甘やかされた子供に譬えている。
その流れの中で「犬のディオゲネス」および彼が代表する犬儒学派についても触れている。
今日の状況をより明確にするには、その独特の相貌はさておいて、過去の他の時代との共通点に留意した方がよい。
たとえば紀元前三世紀ごろ、地中海文明がその絶頂点に達するとすぐに、犬儒主義者が現われた。ディオゲネスは泥まみれのサンダルをはいてアリスティプスの絨毯の上を歩いた。
犬儒主義者はどの街角にもどの階層にもいるという人物像になってしまった。ところで、彼らがやったことは、当時の文明をサボタージュすることに他ならなかったのである。
彼らはヘレニズムの虚無主義者だったのだ。彼らは、何も創造しもしなかったし、何も成しはしなかった。彼らの役割は破壊だった。というよりも破壊の試みであったというべきであろう。なぜならば、その目的さえも達成しえなかったからである。
文明の寄食者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないであろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ。
犬儒主義者がもしも笑劇における自分の役柄と考えていることを、すべての人が自然にしかもまじめに演じているような未開民族の中に入ったとしたら、いったい何をなしうるだろうか。
引用:オルテガ『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫、1995年)148、149頁
オルテガはここで犬儒派が登場し始めた当時の地中海文明を、科学文明が爛熟した現代と重ね合わせている。
そこで登場したのが、当時の地中海文明における「犬儒主義者」であり、今日の近代文明における「大衆人」である。
つまりオルテガは、ディオゲネスたち犬儒派を「慢心し切ったお坊ちゃん」たる大衆人の姿に重ねているのである。
「文明の寄食者である犬儒主義者は、文明はけっしてなくならないであろうという確信があればこそ、文明を否定することによって生きているのだ」という言葉から、文明を否定しても否定し尽くせない(消滅しない)からこそ、安心して文明に対するこれ見よがしな否定的な所作に溺れる、オルテガはディオゲネスたち犬儒派にそのような無責任で甘えた精神性を見ていることが分かる。
そのような所作は「甘やかされた子供」(慢心し切ったお坊ちゃん)そのものである。
そしてオルテガはディオゲネスをはじめとする犬儒派の生活態度を「文明へのサボタージュ」と端的に定義して一刀両断している。この観察はオルテガらしい鋭い切れ味がある。
しかし犬儒派(キュニコス派)には後のストア派に繋がるような過酷なストイシズムもあり、オルテガのいう大衆人の姿と完全には重ならない。したがって全面的に犬儒主義者と大衆を重ねるのは、やはり不自然に思える。
それでもディオゲネスたち犬儒派についてこれほど明確に否定的な評価を下した知識人はあまり見当たらないことから、正しいかどうかはさておき、オルテガのこうした表現は大変興味深いものである。