後藤忠政から見た竹中正久「この人のためならどんなことでも動く」

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人物紹介

後藤忠政

後藤 忠政(ごとう ただまさ、本名: 後藤 忠正=読み同じ、1942年9月16日[1] – )は、日本の元暴力団員。20世紀から21世紀の初頭に掛けて活動したヤクザ。

暴力団・川内組若頭補佐兼静岡支部長を経て、暴力団・後藤組を結成、後に伊堂組舎弟となった。指定暴力団・山口組の幹部構成員として、五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟などを歴任したが、2008年をもって引退した。

引用:Wikipedia

竹中正久

竹中 正久(たけなか まさひさ、1933年11月30日 – 1985年1月27日)は、日本のヤクザ。暴力団・四代目山口組組長。

引用:Wikipedia

竹中正久は1984年に、三代目組長だった田岡一雄の死後空位となっていた四代目組長に就任するも、翌年の1985年にそのことへの不満から分裂した組織・一和会のヒットマンによって射殺されている。

「この人のためならどんなことでも動く」

山口組の二次団体である後藤組組長だった後藤忠政は、自著の『憚りながら』(はばかりながら)の中で、山口組の四代目組長だった竹中正久について触れている。

竹中さんは凄い親分だった。あれくらいの大親分になると、もう(四代目の)座布団に座っているだけで、組織が自然に回っていくという感じだったな。三代目時代は、俺もまだ若かったから、(田岡一雄組長を)遠くから見ていただけだったが、四代目の親分には本当にかわいがってもらったよ。(中略)

「ウチの武(正久の実弟、竹中武・二代目竹中組組長)は凄いぞ。万が一、俺に何かあったら、ダイナマイト100本抱えていつでも飛んでくる」って。

今から考えれば、その時にはすでに、一和との抗争が始まっていて、親分もある程度は(自分が襲撃されることを)意識していたんだろうな。親分がそんなことを言うもんだから、俺も「親分に何かあったら、それくらいのことをする腹はできてますよ」と言ったんだ。(中略)

弟の武ともウマが合ったよ。ちょうど同い年くらいだったし。確かに親分も武も、俺とはまったく違うタイプだった。ただ、こと「極道」というものに対する考え方は、ぴったり合ったんだ。極道とはどういうものか、ヤクザとはどういうものか、という考え方だ。

特に四代目の親分には、言葉の端々に大きく感じるものがあったんだ。「よし、この人のためなら、どんなことでも動いてやろう」という思いはあったよ。

引用:後藤忠政『憚りながら』(宝島社、2010年)116・117ページ

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