後藤忠政から見た山口二矢「あんな生き方ができたらと憧れた」

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人物紹介

後藤忠政(1942年9月16日 – )

後藤忠政(ごとう・ただまさ)は1942年9月16日生まれ。本名は同じ読みの後藤忠正。元暴力団組長、元山口組系・後藤組組長。東京で4人兄弟の末っ子として生まれるが、2歳の時に静岡県の富士宮市に疎開、それ以降この地で育つ。富士宮の愚連隊から昭和47年に山口組川内組に入り、その後、後藤組を結成。後に伊堂組舎弟となる。五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟などを務め武闘派組長として知られたが、2008年に除籍処分を受けてそれを機に引退した。(参考:Wikipedia

山口二矢(やまぐち おとや)

山口 二矢(やまぐち おとや、1943年(昭和18年)2月22日 – 1960年(昭和35年)11月2日)は、日本の右翼活動家、民族主義者および反共主義者で、1960年(昭和35年)10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯である。

1960年(昭和35年)10月、政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎を銃剣で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。

引用:Wikipedia

字面だけだと勘違いしてしまいそうだが、「二矢」の読みは「にし」ではなく「おとや」である。

山口二矢(やまぐち おとや)は戦後の右翼活動家としては、三島由紀夫、野村秋介あたりに次いで有名で、活動家の間で崇敬の対象とされる一人となっている。

「あんな生き方ができたらと憧れた」

山口組の二次団体である後藤組組長だった後藤忠政は、自著の『憚りながら』(はばかりながら)の中で、少年時代の喧嘩について言及した後で、浅沼刺殺事件の実行犯である山口二矢について触れている。

ちょうどそれと同じ頃に、社会党委員長の浅沼(稲次郎)刺殺の事件があった(1960年)。あれをやった山口二矢は、俺と同い年でさ。「われわれの世代にも、凄い男がいるんだなあ」と思ったよ。

17歳で、自分の思想、信念のもとに政治家を殺して、鑑別所で命を閉じるなんて、凄い衝撃だった。ショックを受けたよ。俺もあんな生き方ができたらと、一時は右翼に憧れたもんだ。

田舎だったから、(右翼団体に入る)機会はなかったけど、「同い年でもあんな奴がいるのに、逃げたら恥ずかしいじゃないか、男としてみっともないじゃないか」ということは思ったな。

引用:後藤忠政『憚りながら』(宝島社、2010年)38ページ

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