後藤忠政から見た山本健一「懐の深い大物だなと改めて尊敬した」

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元ヤクザの後藤忠政は、三代目山口組若頭で山健組組長だった山本健一についてどう見ていたのか。後藤忠政は山本健一について、自著『憚りながら』の中で言及している。

「懐の深い大物だなって改めて尊敬させられた」

後藤忠政は兄貴分だった伊堂敏雄について言及した流れで山本健一についてこのように述べる。

一度、ウチの兄ちゃんたちが、稲川会の賭場を荒らしてさ、山健(山本健一・三代目山口組若頭)さんから大目玉を食らったことがあったんだ。山健さんは稲川会の石井(隆匡・当時は稲川会理事長)さんと兄弟分だったから。その兄弟分(稲川会)の枝の組の賭場を後藤組が荒らして、おまけにその組と抗争になったもんだから、山健さんが怒るのも当たり前だわな(笑)。

(中略=山本健一の簡単な経歴)

それで伊堂さんが、山健さんから呼ばれて「後藤を破門しろ」と言われたんだけど、伊堂さんが庇ってくれたもんだから、今度は俺が直接、(山本若頭から)呼び出されてさ。「後藤、お前、これ以上やったら破門するぞ」って言われちゃったんだ。

けど、その頃の俺は怖いもん知らずだったから、「分かりました。もう一度、一本(どっこ)に戻ります」なんて言ったんだよ。そしたら、山健さんも「なんだ、お前、俺に楯突くのか」って本気で怒ってさ。

なんとか伊堂さんが取り成してくれたんで、破門にならずに済んだけど、後で伊堂さんから、「山健さんが『後藤って、面白い男だな』と言ってたよ」って聞いて、さすがは山口組の若頭だな、懐の深い大物だなって、改めて尊敬させられたんだ。

引用:後藤忠政『憚りながら』(宝島社、2010年) 74~75ページ

文中の「伊堂」は下記参照。

文中「伊堂」は伊堂敏雄。伊堂敏雄は浜松市を拠点とした山口組系伊堂組の組長だった。後藤は所属していた川内弘の川内組が1977年に事実上の消滅をすると伊堂組の舎弟として移籍した。伊堂は1984年7月に竹中正久が組長を務めた四代目山口組が発足すると引退、同時に後藤組は山口組の直系組織に昇格した。(参考:Wikipedia

後藤忠政(ごとうただまさ)

後藤忠政(ごとう・ただまさ)は1942年9月16日生まれ。本名は同じ読みの後藤忠正。元暴力団組長、元山口組系・後藤組組長。東京で4人兄弟の末っ子として生まれるが、2歳の時に静岡県の富士宮市に疎開、それ以降この地で育つ。富士宮の愚連隊から昭和47年に山口組川内組に入り、その後、後藤組を結成。後に伊堂組舎弟となる。五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟などを務め武闘派組長として知られたが、2008年に除籍処分を受けてそれを機に引退した。(参考:Wikipedia

山本健一 (やまもとけんいち)

山本健一(1925年3月5日 – 1982年2月4日)は日本の暴力団組長。三代目山口組の若頭。1951年頃に当時田岡一雄の三代目山口組で若頭を務めていた安原会会長・安原政雄と出会い山口組に入る。1953年に鶴田浩二襲撃事件に参加して逮捕される。1971年に田岡の強い後押しを受け、磯釣り中に溺死した梶原清晴の後任として若頭となる。山口組が九州に進出する際の夜桜銀次事件や広島抗争など数多くの抗争で指揮を執り、田岡一雄の有力な後継者と目されたが、田岡の死後間もなく持病の肝臓疾患のため死去した。(参考:Wikipedia
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