田中清玄は野村秋介をどう見たか。「約束を反故に。顔も見たくねえ」

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戦後の大物右翼・田中清玄(たなか せいげん)は、新右翼の旗手・野村秋介(のむら しゅうすけ)をどう見ていたのだろうか。

田中清玄の野村秋介観は、『田中清玄自伝』から窺うことができる。

田中清玄(1906年3月5日 – 1993年12月10日)は戦後の大物右翼、天皇主義者。戦前には「武装共産党」時代の共産党幹部として数多くの事件に関与し、治安維持法違反で11年を獄中で過ごす。清玄の母は息子を諫めるために自裁、清玄は煩悶の末に転向する。出所後は禅の修行を経て土建業を起こし、終戦時には昭和天皇に退位しないことや巡幸などを献策。政治面では特に資源外交に尽力した。ハプスブルク家のオットー大公、経済学者のハイエク、山口組組長の田岡一雄などの幅広い人脈で知られる。次男は2018年11月から早稲田大学総長となった田中愛治。祖先に会津藩家老の田中土佐がいる。
野村秋介(1935年2月14日 – 1993年10月20日)は新右翼の代表的人物。工業高校を中退後に「横浜愚連隊四天王」の一人・通称「モロッコの辰」こと出口辰夫の舎弟になる。網走刑務所で五・一五事件の三上卓と出会って民族主義に開眼。1963年に河野一郎邸焼き討ち事件、1977年に経団連襲撃事件などを起こす。自身が関わった民族主義政党「風の会」を『週刊朝日』内の連載イラストで「虱の会」と揶揄されたことから朝日新聞に抗議。謝罪を受けに行った朝日新聞社内で「皇尊弥栄」(すめらみこといやさか)を三唱後、拳銃自殺した。

「貴様は約束を反故にした。顔も見たくねえ」

田中清玄はハプスブルク家のオットー大公、経済学者のハイエク、山口組組長の田岡一雄などとも親交があったほどの幅広い人脈で知られ、『田中清玄自伝』には多くの人物が登場する。

その一人が新右翼の論客だった野村秋介である。

『自伝』ではインタビュアーの大須賀瑞夫の「戦後の右翼はどうですか」という質問に答えて、このように述べている。

 ほとんど付き合いがありません。土光さんが経団連会長の時に、野村秋介が武器を持って経団連に押し入り、襲撃したことがありましたね。政治家と財界人の汚職が問題になった時のことでした。

どこかの新聞社の電話と野村とが繋がっていると聞いたので、俺はすっ飛んで行って、その電話を横取りするようにひったくって、こう言ってやった。

「おい、野村、貴様、即刻自首しろ。貴様が土光さんに会いたいというなら、それは俺が取り計らってやるとあれほど言ったじゃねえか。それを、約束を破って経団連を襲うとは何ごとだ」

そうしたら、野村はつべこべ言った揚げ句に、謝りにくると言うから「貴様は約束を反故にした。顔も見たくねえ」と言って、それっきり寄せつけない。約束を守らないようなやつは駄目だ。

その前に藤木幸太郎さんに一度会わしたことがあったが、藤木さんは「あいつは小僧っ子だな」って、そう言ったきりだったな。

引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫)

田中清玄は、当時、経団連会長だった土光敏夫どこうとしお(1974年・昭和49年から経団連会長)に会いたいと言っていた野村に会わせる約束をしていたらしい。

しかし野村らは先走って行動を起こしたため、約束を反故にされたと感じた田中は激怒、「顔も見たくねえ」と言い、それっきりだという。

田中の野村への評価は芳しいものではないと言っていい。

実際に経団連襲撃事件では、襲撃に参加した野村らは檄文を持ち、土光敏夫会長との面会を求めたが、当時土光は不在だったで空振りに終わった。

田中の言が本当なら、少なくとも野村が土光敏夫と面会するという目的だけならば、あえて経団連会館を襲撃する必要などなかったということになる。

最後に田中は藤木幸太郎(港湾荷役事業の会社・藤木企業の創業者)の「あいつは小僧っ子」という野村評を引き、それに対して暗に賛意を示しているようにも思える。

後藤組組長・後藤忠政は

一方で生前の野村秋介と付き合いがあった後藤組組長・後藤忠政は野村について、「話していて『誠』を感じる人」だったと伝えている。(後藤忠政『憚りながら』宝島社)

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