ニーチェはシャンフォールをどう見たか。「人間通でもあり民衆を知っていた」

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哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、フランス革命期のモラリストであるシャンフォールをどう見ていたのだろうか。

ニーチェは『悦ばしき知識』でシャンフォールに言及している。

フリードリヒ・ニーチェ

フリードリヒ・ニーチェ(1844年10月15日 – 1900年8月25日)はドイツの哲学者。バーゼル大学で古典文献学の教授として勤務、この頃の同僚には歴史家・ヤーコプ・ブルクハルトがいる。哲学者ショーペンハウアー、音楽家ワーグナーに影響されるも後に決別。病気に苦しみつつも哲学的思索に没頭するも、1889年に発狂、その11年後の1900年に死没している。「神の死」「超人」「永劫回帰」といった概念によって現代にまで強い影響力を持つ哲学を展開した。主著に『善悪の彼岸』『ツァラトゥストラかく語りき』がある。(参考:Wikipedia

シャンフォール

[生]1741.4.6. クレルモンフェラン近郊
[没]1794.4.13. パリ
フランスのモラリスト。平民の私生子であったが,美貌と才気によってサロンや宮廷でもてはやされた。大革命に際しては,ミラボーをかついでジャーナリズムで活躍したが,ミラボーとともに没落し,革命に幻滅したあげくピストル自殺をはかり,その傷のため死亡。悲劇『ムスターファとゼアンジール』 Mustapha et Zéanzir (1776) で名声を博し,死後出版された代表作『箴言 (しんげん) と省察』 Maximes et Pensées (95) ,『性格と逸話』 Caractères et Anecdotes (1803) では,革命に熱狂して挫折し,社会や人間について深い幻滅を味わったモラリストの苦渋を告白すると同時に,冷徹な目で旧体制末期の上流社会に辛辣な批判を加えている。

引用:コトバンク

「人間通でもあり民衆を知っていた」

ニーチェを知っている人には難解ではないだろうが、知らない人のためにあらかじめ説明しておくと、ニーチェは貴族主義者で、しばしば血統上の貴賤が思想に影響を与えると信じていたということ、またフランス革命やそれの根底にあった近代理念全般に対して否定的・攻撃的だったことを予備知識として頭に入れてもらうと理解しやすいかもしれない。

シャンフォール・・・・・・・。――シャンフォールのような人間通でもあり民衆をよく知ってもいた者が、民衆に味方して、哲学的な諦念や保身の立場に立ってこれを傍観することをしなかったという事実は、私には次のようにしか説明しようがない。

つまり、彼の内には一つの本能があって、それが彼の英知よりも強力であり決して満足させられなかったのだ、それは一切の血統上の貴族(ノブレス)に対する憎しみだった。

おそらくは、彼の母の心にあった古い、容易に読み取られうる憎しみであり、それが母に対する愛によって彼の心のなかで神聖なものとされたのだった、――それは、母のために復讐する折を待っていた彼の子供の時からの復讐本能であった。

ところでしかし、人生と彼の天分が、さらにああ!――おそらく何にもましてつよく彼の胎内に流れる父の血が、ほかならぬこの貴族(ノブレス)に名をつらね、それと同格になるようにと彼を誘惑したのだ――永い永い年月にわたって!

だが結局彼には、自分自身の姿が、アンシャン・レジーム下の「古い人間」というその姿が、これ以上見るに耐えないものとなった。悔悛の烈しい情熱が、彼の心にわき立った。

この情熱を抱いて・・・・・・・・・彼は、賤民の衣裳を、彼流儀・・・の毛織りの修道服として、身にまとったのだ! 彼の良心の疚しさは、復讐をゆるがせにしていたということにあった。

――シャンフォールが当時いますこし哲学者として身を持していたとしたら、革命はその悲劇的な機智とその最も鋭い棘とを手に入れることができなかったろう。革命は、一個のはるかに愚劣な事件とみなされ、あれほど有能者たちを誘惑するものとは決してならなかったろう。

しかしながら、シャンフォールの憎しみと復讐とによって同時代人全部が教育された。そして、最も高尚な人間たちがこの学校を卒業した。

ミラボーが、シャンフォールを、自分のより高い・より年嵩(としかさ)の自己――そこから彼が励ましや戒めや決済を期待しまたそれを忍受した――を仰ぐかのように、仰ぎ見たことを、思いやるがいい、――人間としては、今日このごろの大政治家中の一級品と比べてすら、全く段違いの偉人に属するミラボーがである。

――このような友人や弁護者があったにもかかわらず(現にシャンフォール宛のミラボーの手紙が残っている)、このあらゆるモラリスト中もっとも機智縦横の人物だったシャンフォールが、おそらくはこの・・世紀の全フランス人中で最も思慮深い眼と耳との持ち主だったスタンダールと同じく、フランス人のあいだにあまり親しまれないでいたということは、奇妙なことだ。

つまりスタンダールの場合は、彼があまりに多くドイツ人的なものイギリス人的なものを具えていたことから、パリ人にはどうにも我慢ならぬものだったためだろうか?

――だがシャンフォール、魂の深さや背景をゆたかに備え、陰鬱で・苦悩し・燃え立っていたこの人間、――人生に対する治療剤として笑いを必要とみなし、笑わなかった日はいつも自分がほとんど見失われたとばかり思ったこの思想家、――このシャンフォールは、フランス人であるというよりむしろイタリア人のように、ダンテやレオパルディの血縁者のように見える!

シャンフォールの臨終の言葉を御存知だろう、――「ああ! わが友よ」、と彼はシエイエスに言った、「心臓が破裂するか、青銅なみに冷たくなるしかないこの世界から、いよいよ私はおさらばする――」。

これはたしかに死になんなんとする一フランス人の言葉ではない!

引用:ニーチェ『悦ばしき知識』ちくま学芸文庫(九五・172~174頁)

文中に出てくる「スタンダール」とはむろん、小説『赤と黒』や『パルムの僧院』の作者のスタンダールのことである。

ニーチェの人物評は多くの場合手厳しく、相手を徹底してこき下ろすこともしばしばだが、そんな中でも常にといっていいほど好意的に言及される者の一人がこのスタンダールである。

「シエイエス」は同じくフランス革命期の政治家、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスのことだと思われる。このニーチェの文を読む限り、シエイエスはシャンフォールの親友であり、シャンフォールの最期を看取ったらしい。

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