思想家のジョルジュ・バタイユは哲学者ヘーゲルをどのように見ていたのか。
バタイユはヘーゲルについて『純然たる幸福』(ちくま学芸文庫)の「ヘーゲル、人間と歴史」で言及している。
人物紹介
ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897年9月10日 – 1962年7月8日)は、フランスの哲学者、思想家、作家。フリードリヒ・ニーチェから強い影響を受けた思想家であり、後のモーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダなどに影響を及ぼし、ポスト構造主義に影響を与えた。
引用:Wikipedia
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 – 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。
引用:Wikipedia
主著に『精神現象学』『エンチクロペディー』『法哲学』などがある。また日本では岩波文庫から出版されている講義録の『歴史哲学講義』なども広く知られている。
「ヘーゲルのこの表現を知らずにいるのは空しい」
先述の通り、バタイユはヘーゲルについて『純然たる幸福』(ちくま学芸文庫)の「ヘーゲル、人間と歴史」で言及している(しかしバタイユはヘーゲルを重視しているので、特に興味深い表現がそこであるというだけで、ヘーゲルへの言及自体は枚挙に暇がない)。
現代の思想は、ヘーゲルが一八〇六年以降〈人間〉と人間の〈精神〉に与えていた全般的な表現を無視している。そしてまたそのことにわれわれが満足してしまっている。
そのために、現代の思想はゆがんだ形で展開してしまっているのである。私は現在そのような大まかな印象を持っている。たしかに私には、ヘーゲルのこの表現がどの程度壮大であるのかも、また私自身この表現を自分の思索の主要な対象にしなければならないのかどうかということも分からない。
けれどもヘーゲルのこの表現は、われわれがこれを知っている限り存在しているのであり、動かしがたいという印象さえ与える。少なくとも言えることは、ヘーゲルのこの表現を知らずにいるのは空しいということだ。
そしてさらに、現在人間について語っている人々によって暗黙のうちに、おそらく陰険に、前提にされている不完全な思いつき的な表現をヘーゲルの表現の代わりにしてしまうのは、もっと空しいということである。
引用:『純然たる幸福』(ちくま学芸文庫)の「ヘーゲル、人間と歴史」
冒頭「一八〇六年以降」というのは、ヘーゲルが『精神現象学』を書き始めたのが1805年で、出版したのが1807年であることを意識しての言葉である(ちくま学芸文庫『純然たる幸福』の訳注による)。
すなわち「一八〇六年以降〈人間〉と人間の〈精神〉に与えていた全般的な表現」というのは、ヘーゲルの『精神現象学』における表現を指しているのである。
「ヘーゲルのこの表現を知らずにいるのは空しい」とは、ヘーゲルに対するバタイユの最大限の賛辞である。この賛辞はとりわけ、(「ヘーゲル、人間と歴史」のその後の展開を読む限り)『精神現象学』の中の〈主人〉と〈従僕〉の対立に関する表現に向けられているように思える。
ヘーゲルとコジェーヴの難解さ
また引用個所の後、バタイユは率直にヘーゲルの読解が非常に難しく、それに輪をかけてヘーゲルの解釈者アレクサンドル・コジェーヴの表現も難解であるということに触れている。
とはいえまず先に私は、ヘーゲルの表現に対するこうした無視にはそれなりの理由があるということも言っておかねばならない。つまりヘーゲルの読解は難しいのだ。
そしてアレクサンドル・コジェーヴがその著『ヘーゲル読解入門』のなかでおこなっているヘーゲルの表現の解読も、読者を意気阻喪させる体(てい)のものなのである(少なくとも一見したところはそうだ)。
引用:『純然たる幸福』(ちくま学芸文庫)の「ヘーゲル、人間と歴史」
アレクサンドル・コジェーヴ(Alexandre Kojève, 1902年4月28日 – 1968年6月4日)は、ロシア出身のフランスの哲学者である。フランス現代思想におけるヘーゲル研究に強い影響を与えた。
引用:Wikipedia
またヘーゲル哲学やそれに対するコジェーヴの解釈は、読む人によっては、その表現があまりに抽象的すぎるために、将来の実際的な政治的・歴史的展開とは無関係と感じるのかもしれない。
しかし、ヘーゲルがコジェーヴに影響を与え、コジェーヴがフランシス・フクヤマに影響を与え、ある時期フランシス・フクヤマやその主著『歴史の終わり』がネオコンの思想的支柱であり、そのネオコンがまたある時期米国政治に大きな影響を与え、そして米国がわれわれ日本にとってどういう国であるか思い起こしたなら、そのような感想を抱くのは迂闊なことだと思える。