小林秀雄はヘーゲルをどう見たか。「およそ見残しをしない自分の眼力」

批評家
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批評家の小林秀雄は哲学者のヘーゲルをどう見たのだろうか。

小林はヘーゲルについて、『直観を磨くもの 小林秀雄対話集』(新潮文庫)の三木清との対談の中で言及している。

小林秀雄

小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 – 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。(略)

近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。

引用:Wikipedia

ヘーゲル

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 – 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。

引用:Wikipedia

ヘーゲルは詩人ヘルダーリンや哲学者シェリングとの交友でも知られている。

ヘルダーリンは哲学者ハイデッガーがもっとも重要視した詩人といって良い。

三木清

三木 清(みき きよし、1897年1月5日 – 1945年9月26日)は、(西田左派を含めた上での)京都学派の哲学者、法政大学文学部教授。弟に中国文学者の三木克己がいる。

引用:Wikipedia

三木清は特にパスカル研究でよく知られ、著書として『パスカルに於ける人間の研究』『人生論ノート』といったものが有名である。

「およそ見残しをしない自分の眼力」

前段で小林は三木清の文章についてダメ出しをしている。

その論旨は、論理的に精密な文章を書いたところで、表現力の部分で躓いているならその文章は不十分である、ということである。

小林 そういうふうなこと(注:人間の本質は「もの」を造ることにあるといったこと)は三木さんのこのごろの思想の中心だね。あなたの言う技術とか、構想力とか、このごろの三木さんのそういうものはわかるよ。非常によくわかるんだ。あなたに貰った本もみな読んだし、――そこで僕は非常に大きな疑問があるのだよ。

それはこういうところで喋って喋れるか(原文ママ)どうかわからないが、あなたは、あすこまで考えて来たわけでしょう。そうしてあんな文章を書いてはいけないのだよ。そういうことだ、非常に簡単にいうと。非常に乱暴な言い方をしているらしいが、わかってくれるでしょう。

三木 うン。(原文ママ)

小林 論証するには論理でよいが、実証するには文章が要る。哲学というものを創るという技術は、建築家が建築するように、言葉というものを尽くす必要がある。それを言うのですよ。考えるとは、或は見るとは創ることだという命題は、ただディアレクティックではとけないのだと思う。

三木 君の言うことはよくわかるよ。自分でもそのことに気附いている。

引用:『直観を磨くもの 小林秀雄対話集』(新潮文庫)「注」「原文ママ」は引用者による。

ディアレクティック――弁証法の意。相互に対立する意見や事柄の矛盾が解消され、より高い次元の真理に到達すること、またはその手続きを言う。

その後で小林はヘーゲルに言及している。

小林秀雄とヘーゲルは個性としてまったく矛盾した存在である。その小林がヘーゲルをどのように表現したか非常に興味深いところだが、その表現は次の通りである。

小林 素人考えから言うのだけれども、ヘーゲルという人もそういう人だと思うのだ。読み方がいけないのだよ。凡そ思索というものが行くところまで行ってしまった形式というものを論証してみせた、そういう風に彼を読むのは、彼をまるでさか様に読んでいる様なものだと思うね。

やっぱり、彼は眼の前の物をはっきり見て、凡(およ)そ見のこしということをしない自分の眼力と、凡そ自由自在な考える力とを信じてやって行ったのだね。

その揚句ああいうディアレクティックの体系が出来上がって了(しま)った。逆に這入(はい)って行くから彼のディアレクティックの網の中にまるめられて了う。

引用:『直観を磨くもの 小林秀雄対話集』(新潮文庫)

「およそ見残しをしない自分の眼力」という表現は小林らしくて面白い。

ヘーゲルという個性を、小林というまったく別種の個性がデッサンした場合、このような描画が出来上がるのかという印象を覚える。その「肖像」は確かにヘーゲルだが、それを描写している「筆遣い」は明らかに小林のそれである。

そして小林は、「観察から理論」というヘーゲル自身が辿ったであろう道行を拒んで、最初からヘーゲルの完成された理論(=ディアレクティックの体系=弁証法)から入ろうとするヘーゲル信者を否定している。

ちなみに小林のこの言葉を三木は、「それをどう切り開いてゆくかが今の僕の大きな問題だ」と引き受けてから、今度は小林が「実践的でなければいかんということが、論理的に読者にわかったって仕方がないからね」と言い、今度は一転して三木の『人生論ノート』を褒めている。

小林が『人生論ノート』を褒めるのは、そうした表現上の難点をこの作品はクリアしているという意味であろうと思われる。

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