小林秀雄と保田與重郎。保田の訃報を聞き弔問に訪れた小林は…

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批評家の小林秀雄は同じ批評家の保田與重郎についてどのように見ていたのか。

それを察することのできる記述が、木田元(きだ・げん)の著書『何もかも小林秀雄に教わった』の中にある。

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保田與重郎の訃報を聞き小林秀雄は弔問に訪れた

木田はその『何もかも小林秀雄に教わった』で、保田與重郎が小林秀雄について論じた短文にふれた後、このように続けている。

一方、小林秀雄の方は、保田與重郎にも日本浪漫派にも不思議なほど言及していない。

だが、昭和五十六(一九八一)年十月四日に保田が息を引きとったあと、訃報が伝わるとすぐ、七十九歳の小林秀雄が保田邸に弔問に訪れたということを、つい最近福田和也さんに教えられた。

引用:木田元『何もかも小林秀雄に教わった』(文春新書、2008年)229頁

続けて木田は福田和也の文を引用する(つまり次の文は孫引きになる)。

 そこに、ずっと正座していたのですよ。
と指をのばして示してくれた。
十二畳ほどの部屋の、その縁側である。
……
「ずっと、板の上に座ってはって。いくらお勧めしても、畳の上には進みはりまへんでした。顔、見てやってくださいと云うたのですが。背中を丸うして、ちっちゃくならはって、ずっと、ここに座ってはりました。一言も、お話になりまへん。いや、何か、呟いてはったような気もしますけれど……」
と、もう一度指さした。(福田和也「with the Memphis agaun.」、「en-taxi」summer 2008,vol.22所収)

引用:木田元『何もかも小林秀雄に教わった』(文春新書、2008年)230頁

実は生前、保田は小林が「新潮」に連載した『本居宣長』を丹念に読んで感想を送り、励まし続けたのだという(『私の保田與重郎』新学社、平成22年。221頁、杉本秀太郎「土蜘蛛」による)。

フランス文学者の杉本秀太郎はそれについて、「そのことあればこそ、義仲寺でとりおこなわれた保田與十郎の葬儀に小林秀雄は馳せ参じたのだろう」と述べている。

私もまた、弔問時に小さくなっていたという小林の態度は、そのような保田の生前の厚誼に自分は十分に報いなかった、不義理をしていまったという恥ずかしさ、あるいは罪悪感が原因ではないかと、勝手に推測している。

小林秀雄

小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 – 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。(略)

近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。

引用:Wikipedia

保田與重郎

保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう)の生没年は1910年(明治43年)4月15日 – 1981年(昭和56年)10月4日。戦前の日本を代表する文芸評論家で日本浪曼派の代表的論客とされる。ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開。戦前、『日本の橋』でデビューし、『蒙疆』『後鳥羽院-日本文學の源流と傳統』『近代の終焉』『日本語録』など多数の作品を発表。戦後、公職追放されるも、『日本に祈る』や『絶対平和論』を発表、再び注目される。戦中・戦前の立ち位置のために現在でも評価が難しいとされる文学者の一人。(参考:Wikipedia

木田元

木田 元(きだ げん、1928年9月7日 – 2014年8月16日[1])は、日本の哲学者。専攻は現象学の研究。中央大学名誉教授[2]。

モーリス・メルロー=ポンティ等の現代西洋哲学の主要な著作を、平易な日本語に翻訳した。マルティン・ハイデッガー、エドムント・フッサールの研究でも知られる。

引用:Wikipedia

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