小説家の三島由紀夫は批評家の保田與重郎をどう見たのだろうか。
三島は保田與重郎について「私の遍歴時代」で言及している。
三島由紀夫(みしまゆきお)
保田與重郎(やすだよじゅうろう)
「持ち上げている作品がつまらないものばかりで呆れた」
三島は「私の遍歴時代」の中で、自作「花ざかりの森」を発表した文芸誌の同人についての記述の流れで保田與重郎に言及している。
以下、記述は中公文庫の『太陽と鉄』所収の「私の遍歴時代」による。
この人たちは、佐藤春夫、保田与重郎、伊藤静雄諸氏の仕事に感心しており、これらの名は会合の席でもひんぱんに出た。
私は保田氏の本を集めだしたが、「戴冠詩人の御一人者」や「日本の橋」「和泉式部私抄」などの本は、今でも、稀に見る美しい本だと思っている。
何だか論理が紛糾してわかりにくい文章だが、それがあの時代の精神状況を一等忠実に伝える文体だったという気もしている。
ただ驚いたのは「浪漫派的文芸批評」で、ひどく戦闘的な批評だが、氏がむやみと持ち上げている作品に一つ一つ実地に当たってみると、世にもつまらない作品ばかりなのに呆れたのをおぼえている。
これは私の文学的野心をはなはだ混乱させた本であった。
引用:三島由紀夫『太陽と鉄』(中公文庫、1987年)「私の遍歴時代」126頁
三島は保田の批評で褒めている作品がつまらないものばかりで呆れたと書いている。
一方、これについて批評家の福田和也は「批評私観」で「このエピソードは、如何に保田が外部の媒体に頼らない独自の批評世界を持っていたかを証している」と肯定的にとらえている。(福田和也『甘美な人生』ちくま学芸文庫、2000年。17頁)
「返答に失望したので記憶に残っている」
三島の保田に関する記述はまだ続く。
三島の記憶によれば三島が保田を訪問したのは一度きりで、学校における講演をお願いに行ったのだという。
保田与重郎氏を訪問したのは、私の学校における講演をおねがいに行ったのだと思う。
あとになって考えると妙なことに、保田氏の印象と川端康成氏の印象がよく似ていて、客を迎えて座敷にあるときの主人としての居住い、言葉すくなに低い声で語る言葉にかすかに残る上方訛り、顔の表情をあまり変えず何事にも大しておどろかない物静かさ、……おそらく出身地の共通性ということもあろうが、どちらも初対面が和服姿であったことも加えて、ふしぎと似た印象を残している。
川端氏の場合は、氏の文学と比べて、そんなに異質の印象を受けなかったが、保田氏の場合ははなはだしく意外であった。
氏の文学から、私は談論風発、獅子のごとき人物を想像していたからである。
本田秋吾氏の「物語戦後文学史」の中に「バルカノン」という雑誌からの対談が引用されており、その中で、私が、女子学習院に弁当泥棒の入った話をしたことを、保田氏が語っているが、この件はとんと記憶にない。
大体私は、勝手なことを喋り散らして、片っ端から忘れてしまう人間なので、きっといろいろと軽薄なお喋りをしたと思う。
ただ一つ記憶に残っているのは、
「保田さんは謡曲の文体をどう思われますか」
と質問して、
「さあ、昔からつづれ錦と言われているくらいで、当時の百科事典みたいな文章でしょう」
と答えられたことである。保田氏のこの答えは年少の私をひどく失望させたので、その失望によって記憶に残っているらしいのであるから、保田氏にとっては迷惑な話である。
引用:三島由紀夫『太陽と鉄』(中公文庫、1987年)「私の遍歴時代」127,128頁
このあと三島は失望の理由として、「謡曲の絢爛たる文体」は絶望感の裏打ちを必要とするはずで、それに対する保田の「浪漫主義者らしい警抜な一言を期待していた」からだと説明している。
この話の結びに三島は、だが「弁当泥棒の話などを得々とする一少年の客に対して、氏がそんな重大な返答を与える義務がなかったことはもちろんである」と卑下することでバランスを取っている。