文芸評論家・保田與重郎は右翼活動家の影山正治をどう見たのだろうか。
保田與重郎は影山正治に「日本女性語録」で言及している。
人物紹介
影山 正治(かげやま まさはる、1910年(明治43年)6月12日 – 1979年(昭和54年)5月25日)は、日本の右翼活動家、思想家、歌人。
愛知県豊橋市生まれ。国家主義者の影山庄平を父に持つ。國學院大學卒業。保田與重郎に親炙し日本浪曼派の影響のもと民族派としての右翼活動、論評、作歌を続けた。歌道や記紀に関して著書多数。(中略)
1979年(昭和54年)5月25日、最後の活動として元号法制化を訴え大東農場にて割腹の後、影山は散弾銃により自決した。68歳没。影山はその際に「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」と書かれた遺書を残していた。影山の死後、元号法は可決された。
引用:Wikipedia
「素戔嗚尊に繋がり得る心の状態にいる人」
出典は保田與重郎文庫の『日本語錄/日本女性語錄』による。原文は旧字体だが適宜新字体に直す。漢字が出ない場合などは近い言葉に置きかえることにする。
前段で保田は日本神話の英雄・日本武尊(ヤマトタケル)に言及している。
こうした日本武尊の場合を、ここで悲劇と申せば多少の語弊があるかもしれぬが、ともあれその悲劇を、文学の道として今に踏み定めてゆくとよい。
それはつまり文学によって、時弊の根底をつくという意味だが、その行き方によって始めて、神への復帰と神道の恢弘(※かいこう)が可能となり、われらの仕奉(※しぶ )の道がやや形づくられるように、私は感ずるのである。
引用:「日本女性語錄」『日本語錄/日本女性語錄』保田與重郎文庫、2002年(213頁)
そして影山正治への言及へと続く。
近世以来の思想界を見渡しても、この過程をさらに一歩超えて、この人間状態を了知しつつしかも軽く踏んで、直接に素戔嗚尊(スサノオノミコト)につながり得る心の状態にいる人は、現代においては、現在の影山正治氏以外にないと思う。
今日影山氏以外にそういう人が、わが思想文学の学壇にないばかりでなく、近世以降においてさえ、そういう天性の古代人は少なかった。ただ御一新のある短い期間を見ると、そのころの志士の、ある時のある心的状態においては、そういうものが確かに現れていたのである。
引用:「日本女性語錄」『日本語錄/日本女性語錄』保田與重郎文庫、2002年(213頁)
その影山正治は昭和54年、元号法の制定を祈念して割腹自殺している。