批評家の保田與重郎(やすだ・よじゅうろう)は同じく批評家の小林秀雄をどう見たのだろうか。
ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデッガーの研究者として著名な木田元(きだ・げん)は、『何もかも小林秀雄に教わった』という著書の中で、保田與重郎の小林秀雄観について触れている。
この記事の主要な登場人物
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 – 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。(略)
近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。
引用:Wikipedia
木田 元(きだ げん、1928年9月7日 – 2014年8月16日[1])は、日本の哲学者。専攻は現象学の研究。中央大学名誉教授[2]。
モーリス・メルロー=ポンティ等の現代西洋哲学の主要な著作を、平易な日本語に翻訳した。マルティン・ハイデッガー、エドムント・フッサールの研究でも知られる。
引用:Wikipedia
「小林氏の高邁さと、その志の高さには新時代を画する風があった」
木田元の『何もかも小林秀雄に教わった』によれば、昭和43年に新潮社から刊行された『小林秀雄全集』第四巻の月報に小林秀雄を主題的に論じた「その恩恵の輪」という題の短文があり、その中で保田はこのように述べているという。
孫引きになるが引用する(木田の著書の原文通り旧字体の部分はそのまま表記する)。
しかし小林氏の高邁さと、その志の高さには、新時代を劃(かく)する風があった。
初期の文章には、江戸市民の方言的発想が多少あつたが、漸次、文章の格調が高まるにつれて、やがて私は、この人の態度の真にして、誠あるところを悟り、非常に教はるところがあり、またその点に関して深く敬服した。
その軽快な表現や、破調の発想も、通常文芸批評の軽さや、反射的判断でない真剣のものだつた。多分ある時期々々には、独りで日本文学を負つてゐるやうな気概を持しておられたのではないか。
たださういふことを云ふことはなされなかつたやうに思ふ。
引用:木田元『何もかも小林秀雄に教わった』(文春新書、2008年)228、229頁(原文は『小林秀雄全集』第四巻・月報「その恩恵の輪」)
さらに、『何もかも小林秀雄に教わった』で木田は、木田自身の感想を述べつつ次のように続けている。
「方言的発想」には恐れ入るが、このあと、小林が外国文学、特にロシア文学を自由に自然に扱う手法を称揚し、また日本の古典、宣長や徂徠や藤樹を語り論じるところに、心の緒にふれるものを感じると推奨する。
まあ間然するところのない小林秀雄評だが、儀礼的な感じがしないでもない。
引用:木田元『何もかも小林秀雄に教わった』(文春新書、2008年)229頁
『何もかも小林秀雄に教わった』における保田による小林評への言及箇所はこれで終わりである。
しかし『何もかも~』ではこの後、小林が保田の家に弔問に訪れたという話に触れている。
これは逆に小林が保田にどのような感情を持っていたかを察することのできる記述である。