批評家の保田與重郎は洋画家の梅原龍三郎をどう見たのだろうか。
保田與重郎は『日本に祈る』で梅原龍三郎に言及している。
人物紹介
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年(明治21年)3月9日 – 1986年(昭和61年)1月16日)は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。1914年(大正3年)までは梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)を名乗った。
ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。
引用:Wikipedia
「芸術家の好ましい傲慢と誠実との、全く反対のもの」
保田は『日本に祈る』内の少なくとも二カ所で梅原について言及している。
まず『日本に祈る』の「農村記」内の記述。ここでは「梅原」と明確に名前こそ出していないものの、後の「美術的感想」の記述と照合すると梅原を指していることが分かる。
文の最初の出てくる「志野」は安土桃山時代の焼き物である志野焼(しのやき)を指している。
※出典は保田與重郎文庫の『日本に祈る』による。原文は旧字体だが適宜新字体に直す。漢字が出ない場合などは近い言葉に置きかえることにする。
志野のもつ意味が、もし我々の二十代にわかれば、我々は完全に芸術の希望を失うだろう。
ゲーテは最後の時代に入って、もし自分がシェイクスピアを早く知っていたら、自分の作を描かなかっただろうと云うたと伝えられている。
斎藤茂吉は、六十歳の頃に、ついに自分は人麻呂に及ばぬことを知ったと書いた。茂吉は自主傲然の芸術家であり、誠実をとどめた詩人であることを、この一言で表白したと、小生はその時に思ったことであった。
しかし今日のわが洋画を代表すると言われている一作家は、齢六十にして富士山と取り組むと宣言している。小生は芸術の見地、詩人の立場からして、かような宣言が、作家のこの上ない無気力を表明し、芸術家の好ましい傲慢と誠実との、全く反対のものであることを明らかにしておく。
引用:「農村記」『日本に祈る』(保田與十郎文庫、2001年)185頁
この「今日のわが洋画を代表すると言われている一作家」は梅原龍三郎を意味している。そして梅原が「齢六十にして富士山と取り組む」と宣言したことを取り上げて口をきわめて非難している。
「事大主義」にして「無気力」
しかしよほど腹に据えかねたのだろう。梅原への非難は前述箇所だけに留まらなかった。同じく『日本に祈る』収録の「美術的感想」でも、今度ははっきり名前を出して梅原を非難している。
下の文の最初に出てくる「志賀」はおそらく小説家の志賀直哉を指している。
梅原と志賀に象(かたど)られる日本の知識人の事大主義(じだいしゅぎ・強い者につくこと)が、戦後に一段と増大したことは当然かもしれない。文芸の高い調子はおのづと先方から訪れてくるものである。人為でなく天造である。人為の高尚は卑俗の極である。
梅原が富士山ととり組むという表現をしているのを見て、小生はその言を疑ったのである。しかしこの種の無気力さは、近作の自画像を見て、洗いざらいに明白となった。
どんな人の顔であっても、何かを愛して生き、何らかの生産の生活にある時の顔は、この自画像よりは生命をもっているであろう。宙にういた威嚇的着色の無用さ、耳唇鼻眼の線の迫力を失った不調和、その不安定感はただ無意味を教える。
この一般的に言うて無気力というべきものが、今や日本洋画の象徴である。日本洋画の市場価値において安定した二人きりの作家の一人である。この無気力さが思いあがりとして現われる時、それは一般用語でヒステリーと言うものである。
それは志賀の文章の興味の一つであった。しかし梅原の絵をこの中に入れることはできない。梅原の絵はついに小生の眼前にあらわれることがないのである。
引用:「美術的感想」『日本に祈る』(保田與十郎文庫、2001年)218~219頁
やはりこの箇所でも、梅原が「富士山を描く」と宣言したことから始めて、その自画像の筆致からも見える無気力さを非難している。
保田の文体の特徴として、一般に「皮肉」もしくは「反語」と訳される「イロニー(アイロニー)」という言葉の独特な使用法に特徴があるが、一方で「ヒステリー」は、対象を非難する時に保田が頻繁に使う言葉である。