右翼の田中清玄は、作家の林房雄をどのように見ていたのか。
田中清玄は『田中清玄自伝』の中で、林房雄に言及している。
この記事の主要な登場人物
田中清玄
林房雄
児玉誉士夫
大宅壮一
浅野晃
「義理がある」「あんなもん『大東亜戦争提灯持ち論』だ」
田中清玄は蛇蝎のごとく嫌っていた児玉誉士夫、盟友だった山口組の田岡一雄と関連づけながら、林房雄について言及し、「児玉誉士夫は田岡(一雄)さんや作家の林房雄をつかって接触してきたが、絶対に会わなかった」と話す。
するとインタビュアーにこのように訊かれて林房雄について詳しく語り出す。
ーー林房雄というのは、どういう関係ですか。
東大新人会。あれは大宅壮一とはまた違った才能があるんですよ。学生のときから文筆で飯を食って。あれはお母さんがいい人でねえ。
引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫、2008年)169頁
田中清玄は、林房雄の母が勧めてくれたおかげで、社会主義運動に没頭して親子の縁を切る直前だったのに、母親と最後に一目会うことができたと語って、続けてこのように述べる。(田中清玄は若い時に革命運動に身を投じており、清玄の母はそれを諫めるために自裁している)
母は二年後の昭和五年二月五日に自殺しましたから、そのときが母に会った最後でした。
だから林には義理があるんです。だが、林が何と言おうと、児玉にだけは会わなかった。
「林よ、お前は何も知らんのだから、よけいなことはせんでくれ」って言ったんだ。林は晩年は児玉から資金援助を受けていたんだ。マリンクラブなんかを林はやっていましたからね。児玉を激賞しておった。林にはそういうところがあるんです。
この話は新人会の浅野晃から聞いた。「児玉に会ってくれって林がうるさい」って僕が言ったら、浅野は「林は児玉が一切を賄(まかな)っているからなあ」とね。浅野も七年前に亡くなった。
林は晩年、『大東亜戦争肯定論』などという本を書いたが、あんなもん『大東亜戦争提灯持ち論』だよ。太平洋戦争があったお陰で、飯が食えているという連中だ。児玉がまさにそうだった。
引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫、2008年)169、170頁
田中清玄は人に対する好悪がはっきりしており、児玉誉士夫にはどれほど頼まれても絶対に会わなかったと話しているように、徹底して嫌っていれば会うことすらしない。
一方で林房雄とは付き合いを断つまではしていないことから、田中清玄の林房雄に対する立場は、「思想的にはまったく評価していないが、人間的には特別嫌ってはいない」といった感じに見える。
もちろん付き合いを続けた理由は、革命運動のせいで会えなくなった母に林房雄の母のおかげで少しだけ会えたという、「林房雄の母親に対する義理」というのもあったのかもしれない。
また林房雄といえば『大東亜戦争肯定論』が有名だが、これについても田中清玄は『大東亜戦争提灯持ち論』として一蹴している。
(当記事の内容と関係ないが、『大東亜戦争肯定論』はAmazonレビューでは星が4,4とかなりの高評価なのが興味深い)
『田中清玄自伝』の見どころ・読みどころ
この記事の引用文は『田中清玄自伝』からのものである。
『田中清玄自伝』の面白さは、まずはそこに出てくる人物の異常なまでの幅広さである。
ざっと有名な名前を上げるだけでも、マルクス主義・共産党関係者なら徳田球一、野坂参三、文学者なら太宰治、亀井勝一郎、三島由紀夫、林房雄、禅僧の山本玄峰、右翼の野村秋介、三上卓、四元義隆、王族や皇族関係者なら昭和天皇、オットー大公、スペインのカルロス国王、学者ならハイエク、今西錦司、アウトローでは田岡一雄、ジャック=ボーメル(フランスのギャング)、政治家ならスカルノ大統領、鄧小平、鈴木貫太郎、田中角栄、中曽根康弘、小沢一郎などなど。
これでも一部のほんのわずかな名前を挙げただけで、ともかく到底ここで挙げ切ることのできないくらい多士済々である。
その数もさることながらあまりに広い分野にまたがった人物の名が出てくるため、おそらく『田中清玄自伝』に登場する名前をすべて知っているなどと言える人はほぼいないか、いたとすれば相当な教養人だろう。
くわえて、祖先が会津藩の家老で会津者であることを誇りにしている田中は、竹を割ったような性格をしており、自ずと口吻も力強く断定的になって、有名人や多くの人にとって評価の高い人物を自分の見地から一刀両断してしまうところなど、その語り口の意外性・面白さは読む者に尽きない知的興奮を与えてくれる。
最後に言うまでもないが、その思想の是非はともかく、自分の信念と理想のために世界中を駆けて回った田中の世界観の雄大さ・スケールの大きさは、それに触れる者に強い感動を覚えさせてくれるものである。