戦後の大物右翼・田中清玄は他の右翼についてどのように考えていたのだろうか。
ここでは橘孝三郎、三上卓、児玉誉士夫、赤尾敏、四元義隆らをどのように見ていたかを『田中清玄自伝』(ちくま文庫)の記述から取り上げる。
この記事の主要な登場人物
以下、右翼の各人物に対して田中が言及している箇所を『田中清玄自伝』から抜粋してゆく。
「尊敬しているのは橘孝三郎さんと三上卓君だけ」
私が本当に尊敬している右翼というのは、二人しかおりません。橘孝三郎さんと三上卓君です。二人とは小菅で知り合い、出てきてからも親しくお付き合いを致しましたが、お二人とも亡くなられてしまった。
橘さんは歴代の天皇お一人お一人の資料を丹念に集めて、立派な本を作られた。そのために私もいささかご協力をさせていただきました。
橘さんは獄を出てからも、いわゆる右翼運動などには一切かかわらず、文字通り晴耕雨読の晩年でした。彼が一高を中退して故郷の水戸へ帰る時の文章は「田園まさに荒れなんとす」という、まさに今でいえば環境問題の神髄をとらえた素晴らしいものでした。彼の流れを汲む人々は、今も有機農法、自然農法、河川浄化などで立派にやっておられますよ。
一方、三上君は優れた実践家でした。
引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫、2008年)180、181頁
田中は「本当に尊敬していた右翼は二人しかいない」として、その二人として橘孝三郎と三上卓を挙げている。「小菅」とは田中らが収監されていた小菅刑務所を指すと思われる。
橘孝三郎が「さん」付け、三上卓が「君」付けなのは、それぞれの年齢がどの程度近いかによるものと思われる。(調べたところ、偶然にも全員が3月生まれである)
- 橘孝三郎 1893年3月18日生まれ
- 三上卓 1905年3月22日生まれ
- 田中清玄 1906年3月5日生まれ
橘孝三郎の「立派な本」とはおそらく『天皇論』(全5部作)のことを指している。
一方で三上卓については「優れた実践家」と言葉少なに褒めている。
「児玉(誉士夫)は聞いただけで虫酸が走る」
田中がもっとも忌み嫌っていた人物として、戦後の大物右翼・児玉誉士夫が挙げられる。
児玉は聞いただけで虫酸が走る。こいつは本当の悪党だ。児玉をほめるのは、竹下や金丸をほめるよりひでえ(笑)。
引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫、2008年)181頁
また別の箇所では次のように語っている。
しかし、児玉は田岡(一雄)さんや作家の林房雄までつかって、なんべんも俺に会いたいって言ってきたが、絶対会わなかった。児玉を、戦前は軍が使い、戦後も自民党の長老たちは使っていたなあ。世のため人のためにやるなら別だが、国家の名前を使いやがって、一番悪質な恐喝、強盗の類いじゃないか。
引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫、2008年)169頁。文中()内は引用者による
児玉誉士夫が岸信介と組んで、河野一郎政権を作るため、全国の博打打ちと右翼を糾合した「東亜同友会」という組織を作ろうとした時、田中は親しかった山口組組長・田岡一雄とともに「麻薬追放・国土浄化連盟」を作って対抗している。
「赤尾敏をねじあげて摘み出したことがあった」
親米右翼の赤尾敏については先述の児玉に関する言及の直後に話している。
話では「俺がまだ学生の頃」というので、田中が戦前、共産党員だった頃のことである。
赤尾敏というのもいたな。彼をねじあげて摘み出したことがあった。俺がまだ学生の頃です。
彼は我々がデモや集会などをやっていると、警視庁と組んで、解散させにやって来るんだ。腕に「国民糾察隊」などという腕章をつけ、ナチスと同じようなユニフォームを着てね。
まず赤尾が騒ぎ、警察がそれを口実に介入して集会を中止させるというのが、彼等の常套手段なんだ。いつもやってくるから顔は知ってる。東大の仏教青年会館の前だった。
「おい。お前、暴れたら摘み出すからな」。僕がそう言ったものだから、暫くはおとなしくしていたが、やがて腕章をつけてやり出したから、「約束が違うじゃねえか」といって、腕をグイッと逆手にとってねじり上げ、足払いを掛けてその場へ倒してやった。二千人ぐらいの聴衆が見ていた。
ぶっ倒してそこにあった石で殴りつけようとしたら、島野武が止めろというので、一瞬、気を抜いたすきに、赤尾はすっと立ち上がって、逃げ出した。
この野郎と思ってあとを追いかけていったら、何と本富士署の中へ逃げ込むんだ。慌てて引き返したが、こっちも危うくそのまま中へ入ってしまうところだった(笑)。
引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫、2008年)181、182頁
田中の語りではエピソードの性格もあり赤尾はほとんど戯画化されて捉えられている。
田中にとって赤尾敏はまったく評価の対象ではなかったことが窺える。
「四元君には山本玄峰老師を紹介してもらった恩義ある」
田中は昭和30年に自分が持っていた三幸建設という土木・建築の会社を、右翼で血盟団事件の被告だった四元義隆(よつもと よしたか)に譲っている。(参考:三幸建設工業株式会社・沿革)
田中は『田中清玄自伝』で四元について次のように語っている。
四元君には玄峰老師を紹介してもらった恩義があった。(略)
ちょうどその頃、エネルギーや食糧の自給が大事だというので、東南アジアに出かけることも多くなり、それで持っていた会社は全部、四元君にやったんです。
「これで玄峰老師を紹介してくれたお礼はすんだ。あとどうするかはお前さんの努力次第だぞ」と本人には言った。以来、本人とじっくり話したことはないなあ。
引用:『田中清玄自伝』(ちくま文庫、2008年)181、182頁
田中は四元について主に「山本玄峰老師を紹介してくれた義理のある人物」として認識している。それは田中にとって、一つの会社を譲っても惜しくないほど大きなものだった。
しかし、山本玄峰を紹介してくれた四元自身の人物については、悪くは思っていないものの、先述の橘孝三郎や三上卓と比べればそこまで買っているわけではないという印象を受ける。
『田中清玄自伝』の見どころ・読みどころ
この記事の引用文は『田中清玄自伝』からのものである。
『田中清玄自伝』の面白さは、まずはそこに出てくる人物の異常なまでの幅広さである。
ざっと有名な名前を上げるだけでも、マルクス主義・共産党関係者なら徳田球一、野坂参三、文学者なら太宰治、亀井勝一郎、三島由紀夫、林房雄、禅僧の山本玄峰、右翼の野村秋介、三上卓、四元義隆、王族や皇族関係者なら昭和天皇、オットー大公、スペインのカルロス国王、学者ならハイエク、今西錦司、アウトローでは田岡一雄、ジャック=ボーメル(フランスのギャング)、政治家ならスカルノ大統領、鄧小平、鈴木貫太郎、田中角栄、中曽根康弘、小沢一郎などなど。
これでも一部のほんのわずかな名前を挙げただけで、ともかく到底ここで挙げ切ることのできないくらい多士済々である。
その数もさることながらあまりに広い分野にまたがった人物の名が出てくるため、おそらく『田中清玄自伝』に登場する名前をすべて知っているなどと言える人はほぼいないか、いたとすれば相当な教養人だろう。
くわえて、祖先が会津藩の家老で会津者であることを誇りにしている田中は、竹を割ったような性格をしており、自ずと口吻も力強く断定的になって、有名人や多くの人にとって評価の高い人物を自分の見地から一刀両断してしまうところなど、その語り口の意外性・面白さは読む者に尽きない知的興奮を与えてくれる。
最後に言うまでもないが、その思想の是非はともかく、自分の信念と理想のために世界中を駆けて回った田中の世界観の雄大さ・スケールの大きさは、それに触れる者に強い感動を覚えさせてくれるものである。
本記事では複数の右翼著名人を扱ったが、右翼については、Amazonの電子書籍読み放題サービス『Kindle Unlimited』で、
- 『戦前右翼思想入門: 日本ファシズムの起源・系譜・実態』
- 『そこが知りたかった! 「右翼」と「左翼」の謎 』(PHP文庫)
などを読むことができる。(2022年11月11日閲覧時の情報)