批評家・小林秀雄は、同じく批評家(評論家)の河上徹太郎をどう見たのだろうか。
小林が河上をどう見ていたかは、小林の『Xへの手紙』からうかがうことができる。
人物紹介
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 – 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。
近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。
引用:Wikipedia
河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年(明治35年)1月8日 – 1980年(昭和55年)9月22日)は日本の文芸評論家、音楽評論家である。日本芸術院会員、文化功労者。ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者としても知られた。小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人アヤ(綾子)は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。
引用:Wikipedia
「決して武装したことのない君の心」
小林秀雄の『Xへの手紙』は、「某氏=X」に宛てられた手紙の形式で書かれた文芸作品(小説)である。
そしてこの「X」は河上徹太郎だと言われている(人によっては中原中也だと言う人もいるが、Xが中原の人物像に当てはまるとは思えない。だからここでは河上徹太郎だという前提で書く)。
つまり小林の『Xへの手紙』は、河上徹太郎に宛てられた手紙だということである。
君くらい他人から教わらず他人にも教えない心をもった人も珍しい。
そういう君が自分でもよく知らない君の天才が俺をうっとりさせる。君の心のこの部分が、その他の部分とうまく調和しなくなっている時、特に君は美しい。
決して武装したことのない君の心は、どんな細かな理論の網目も平気でくぐりぬける程柔軟だが、又どんな思い掛けない冗談にも傷つかない程堅い。
冗談に傷つくというのは妙な言葉だが、俺はまともな言葉にはいくらでも言い逃れを用意している癖に、ほんの些細な冗談口に気を腐らせる人々には飽き飽きする程出会っているのだ。
俺には口の減らない人をへこませるくらい容易な事はない。
俺は別に君を尊敬していない、君が好きだというだけで俺にはもう充分に複雑である。言わばそれは俺自身に対する苦痛だが、又快い戦なのだ。
引用:『Xへの手紙』小林秀雄
小林と河上の会話
ちなみにその前段では、二人がある時にした言い争いが書かれている。
俺が生きる為に必要なものはもう俺自身ではない、欲しいものはただ俺が俺自身を見失わない様に俺に話しかけてくれる人間と、俺の為に多少はきいてくれる人間だ。
「虚栄のうちで書くという虚栄が一番苦痛に溢(あふ)れている」
「苦痛であることは弁解にならぬ」
「弁解ではない事実なのだ」
「事実なら猶更(なおさら)許すことが出来ない」君とこんな会話をかわした事がある、何時の事だったかもう忘れて了(しま)った、どっちがどっちの言葉を言ったのかももう忘れて了った。
引用:『Xへの手紙』小林秀雄
小林は「どっちがどっちの言葉を言ったのかももう忘れて了った」と書いているが、それは照れ隠しではないかと思う。
なぜなら明らかに3番目は小林であり、だから最初(1番目)も小林で、2番目と4番目が河上だと思えるからだ。会話中の「~ではない、事実だ」という形式は、小林がしばしば用いた定型句だ。
また「X」が中原中也には思えない理由は、中原中也にはこの論争をしている人物に見られるような厳しさはなかったように思えるためである。
加えて「X」は寛大で大人な人物として描写されているが、中原は詩人らしい鋭い感覚はもっているものの、どちらかといえば子供っぽい性格だったのではないかと思う。