フランスの詩人・小説家・批評家であるポール・ヴァレリーは、軍人で政治家のフィリップ・ペタンをどう見ていたのだろうか。
ヴァレリーは「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」や「ペタン元帥頌」でペタン元帥に言及している。
人物紹介
アンブロワズ・ポール・トゥサン・ジュール・ヴァレリー(仏: Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871年10月30日 – 1945年7月20日)は、フランスの著作家、詩人、小説家、評論家。多岐にわたる旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。
引用:Wikipedia
ポール・ヴァレリーは戦前戦中を代表するフランスの批評家であり、戦後最大のフランスの文芸批評家であるモーリス・ブランショと並び評される。
連作小説集『ムッシュー・テスト』(1896年)、詩集『若きパルク』(1917年)、評論『精神の危機』といった作品がある。
日本ではヴァレリー自身の作品を通じてというより、批評家の小林秀雄に大きな影響を与えた人物として有名かもしれない。
小林は1932年に、ヴァレリーの『ムッシュー・テスト』を『テスト氏』として最初に邦訳している。
アンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタン(フランス語: Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain, 1856年4月24日 – 1951年7月23日)は、フランスの軍人、政治家。フランス第三共和政最後の首相およびフランス国(ヴィシー政権)の主席を務めた。
引用:Wikipedia
ペタンは第一次大戦の英雄であり、特に「ヴェルダンの戦い」において指揮官として大きな戦功があった。その功績もあって戦後、元帥に昇進している。一時は部下に後の大統領、シャルル・ドゴールがいたこともあったという。
1940年、ナチス・ドイツの侵攻によってフランスの敗色が濃厚になると主戦派の政府首脳に対し対独講和を主張。内閣が倒れると当時の議会に引っ張り出され、後任の首相となって新政府を樹立、ドイツと休戦協定を結ぶ。
ペタンはこの時、既に84歳になっていた。このペタン元帥の新政府であるいわゆる「ヴィシー政権」は、政治力学の関係から不可避的にドイツの傀儡政権化する。
そのためにペタンの前半生の「第一次大戦の英雄」イメージと後半生(晩年)の売国的な「傀儡政権首班」の「対独協力者」イメージとで著しい乖離が生じた。
ドイツが敗戦するとペタンは「国家反逆罪」によって死罪の宣告が下るも、ド・ゴール将軍によって高齢を理由に罪を減ぜられ、無期禁固刑になる。ペタンはその数年後の1951年に95歳で永眠。
『フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞』
「フランス学士院」は、有名ないわゆる「アカデミーズ・フランセーズ」の他、4つのアカデミーで構成されている。
その新会員は自らが襲った席にいた前任者を称える謝辞を、また現会員は新会員の紹介をかねて、新会員のためにその謝辞への答辞を読む(演説する)習わしであった。
ペタンは1931年にフランス学士院の新会員となり、前任者のフォッシュ元帥のために謝辞を、ヴァレリーはペタンのためにそれに対する答辞を読んでいる。
この「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」は、ヴァレリーによって、ペタンがフランス学士院の新会員となった時に読まれたものである。
当然ながら「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」はその儀礼的な意味もあってペタンへの賛辞で埋め尽くされている。
これらヴァレリーの言葉を「単なるおべっか」という先入観で読み流してしまうならそれまでである。
だが一方でこの「答辞」は、敗戦以来日本人には分からなくなってしまったもの、つまり国家や国民は本来その国の優れた軍人に対してどの程度の敬意を払うものなのか、ということを教えてくれる。
つねに奉仕する用意のある奉仕者、戦争にとって意味のある一切の情報に通じているあなたは、数か月で頭角を現し、強大な軍隊をまるで一個師団を率いるのと変わらない的確さで差配する能力があることを示しました。それは個人の資質として、軍隊を統括したあとで、一個師団の師団長の任務を引き受けることも可能だということです。
それは、あなたが軍を率いる術を完全に身につけていることと、同時に、一流の力を持った人物であることを示しています。なぜなら、一流の力を持った人だけが、あらゆる階級の持ち場に適応することができ、そこで最大限の自分の能力を発揮できるからです。
あなたの昇進がめざましかったのはそれゆえです。あなたは、私たちの将官の中で、六千人を率いて戦争を始め、終わった時には、三百万人の兵を統率していた人です。
あなたは何をしたのか? ここでは最も重要な二つのことだけを申しましょう。ヴェルダンを守ったこと、そして、軍隊の魂を救ったことです。
引用:「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)317頁
あなたは不屈の理論というものを断じて好まなかったのです。あなたがけして忘れなかったことは、現実は無数のかなり無秩序な特殊事例からつくられていて、その事例がどのようなものから出来ているかはその都度見極めて、新たに分析しなければならないということです。
引用:「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)319頁
あなたの冷徹な、ほとんど冷厳ともとれる態度は見せかけでした、閣下。その態度からはあなたの心の中にある兵士たちへの賛美、配慮、父性愛は見えません。しかしあなたほど兵士たちの必要に通じ、彼らの力を大切に使おうとし、行き過ぎた厳格さや要求を戒めた指揮官はいませんでした。とくに兵士が流す血を少しでも減らそうとしていました。
兵士は次第にあなたのことを知り始めました。あなたの中に人間を見出したのです。それは階級においてどんなにかけ離れていても、自分を近寄り難い人物、気軽に口がきけない人物、まったく別種の存在にはしない人間ということです。
引用:「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)351頁
『ペタン元帥頌』
『答辞』が第二次大戦前の1931年のものであるのに対し、『ペタン元帥頌』は第二次大戦中の1942年に書かれた。
「頌」は「しょう」もしくは「じゅ」とも読み、人の美徳をほめたたえて詩歌にすることを意味する。「頌歌(しょうか)」や「頌辞(しょうじ)」など、「頌=しょう」の読み方の方が一般的なので、この場合も『ペタンげんすい・しょう』と読むのだろうか。
『ペタン元帥頌』はペタンがヴィシーからパリに来るという情報があり、ペタンに敬意を表するためにパリ市が文化人に小文を書くことを依頼、その複数名の文化人の中にヴァレリーがいたという経緯がある。
「この青い瞳の泰然たる人物の命令にどうして逆らえましょう?」
その中でヴァレリーは以前、先述の「フランス学士院におけるペタン元帥の謝辞に対する答辞」を書いた経緯についての思い出を語っている。
そうした中で、私にとって最も忘れ難いのは、フォッシュ元帥の逝去にともない空席となった学士院(アカデミー)の椅子をペタン元帥が襲うことに全会一致で決定した際、元帥をお迎えする演説の大役が私に与えられたことであります。そして、その演説の準備の必要から、私はこの栄えあるヴェルダンの英雄と頻繁に接する機会を持つようになったのです。
引用:「ペタン元帥頌」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)370頁
ヴァレリーは当初気乗りせず、その役割を断ることを考えていたという。
そこでさらに「かつて陸軍大臣や首相をつとめたことのある人物」が、その答辞の役割に立候補したことから、ヴァレリーはペタンの承諾が得られればという条件でその役割を譲ることを承諾する。
ペタンへの答辞に立候補した「かつて陸軍大臣や首相をつとめたことのある人物」の名前は挙げられていないが、下の文中・2行目の「先述の政治家」がその該当者を指している。
それから数日後、我々三人は、他の友人数名と連れ立って、ランスに集まりました。伝統的な酒倉(ワイナリー)めぐりの間、先述の政治家が前に行くのにつき従いながら、私は元帥に今度の役目を他の人に譲るのが適当と思われる理由を縷々(るる)説明しました。
理由は数多く、筋も通っていて、反論の余地のないものでありました……私は今でも、その時、私のほうに向き直った元帥の姿を目に浮かべることができます。そして、元帥が私に、小声ではありましたが、命令を下すときの声でキッパリといった言葉が耳に残っています。
「演説はおやりなさい……ゆずらずにおやりなさい。」という次第で、ゆずらずに、何とか自分で演説を拵(こしら)えることになったのです。
つねに自分の口にする言葉の重みをはかり、話しかける人も同様に自分の言葉の重みがはかられていることを感じる、この青い瞳の泰然たる人物の命令にどうして逆らえましょう?
引用:「ペタン元帥頌」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)372頁
「現実主義と最も感じやすい洗練された人間性との結びつき」
ヴァレリーはペタン特有の性格を次のように描写している。
ところで、そうした性格に見られる厳格さは、その荘重な、ほとんど厳めしいといえる顔の表情にもうかがえます。それはつまるところ、強い責任感に貫かれ、つねに現実に即して身を処す用意のある精神が持つ厳格さにほかなりません。
そしてその現実主義が、元帥にあっては、最も感じやすい、洗練された人間性と結びついているのです。
引用:「ペタン元帥頌」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)377頁
ある日(一九三三年)、我々の良き友であった今は亡きジャン・シャルコ(※1)が、我々を地理学協会の図書館に案内してくれたことがありました。その一室にヴェルダンの大きな立体模型があるのに私は気づきました。
私は立ち止まり、模型を元帥に指し示しました。元帥は一瞬それを見て、ドゥオモン(※2)の上に指を置きました。そして、「ここを正視することはできない」、と元帥は言いました。「ここには人間としてあまりに悲惨な出来事があった。」
引用:「ペタン元帥頌」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)379頁
「自己犠牲の人」
またあまり知られていませんが、元帥が自己犠牲の人であるということは、多くの人が察しているところであります。1918年にクレマンソー(※)が元帥の肩に手を置き「総司令官はフォッシュだ」と告げたとき、元帥は即座に「祖国を救うためなら、何なりと」と答えたのです。
引用:「ペタン元帥頌」『精神の危機』(岩波文庫、2010年)384頁
「何という軍歴でありましょう!」
ヴァレリーの「ペタン元帥頌」は次のように結ばれている。
まさに破格の人生であります。フランスにも、もし、英雄の生涯をえがくプルタルコスのごとき史家が現れるとすれば、元帥の人生こそ恰好の題材を提供するものでありましょう。
混迷と総崩れの只中で、一国の秩序と名誉と士気とを救うというこの上なく重大な、不安に満ち、危険で、厄介で、苦痛な任務を、この上ない高齢にいたって最も難しい、苦しい条件の下で、一身に引き受けたのです。何という軍歴でありましょう!